![]() |
牛込矢来下界隈 - 渡辺坂 - |
若狭小浜藩主酒井讃岐守忠勝が、三大将軍家光から牛込に下屋敷を貰ったのは、寛永5年(1628)3であった。周囲に土手を築き表門の石垣から東の方42間、西の方263間を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになったのである。酒井邸の竹矢来は江戸名物の1つに数えられ付近を「矢来下」又、天神町に天満宮があったので「天神下」とも言った。この矢来下の天神町と、中里町の間の坂を渡部坂と言う。 昔この坂のふもと(中里町27番一帯)に旗本であった渡部源蔵の屋敷があったのでこの名がつけられた。諸家系譜によれば、渡部氏は五百石取の御書院番で寛文7年(1667)に市谷鷹匠町の屋敷と引き替えに、この地を賜ったとある。中里町の古くは文明年間(1469−86)太田道灌が江戸城を築いた頃すでに牛込郷「七ヶ村」の1つだったと考えられ、牛込のうちでは早くから開け、「身辺武蔵風土記稿」による字名として櫚元(早稲田鶴巻町の一部と山吹町)を下中里と言い、殿の下・山下(赤城下町・天神町・東榎町・榎町)又、谷ノ中(弁天町の一部)を中里村とし矢来町と神楽坂(6丁目の一部)を上中里と呼んでいたと言う。 |
|
| 榎町界隈 - 済松寺 - | |
古くは牛込ヶ村のうち中里村の一部ではなかったかと言われる。正保3年(1646)済松寺領となったが約百年後の延享2年町方支配となり、そのころこの地に十抱えもある大榎があったので、明治2年付近の寺地開墾地を合せて牛込榎町と名づけられた。この榎の大樹はどの辺にあったか定かでにが神楽坂から戸塚に向う往古の鎌倉街道すじにあたり、旅人の目印になったことであろう。道筋(早稲田通り)には矢来のお釈迦さまで有名な一樹山宗柏寺がある。正徳元年京都頂妙寺十三世興正院日意上人が始めて日蓮宗として御建立になったものである。寺には後水尾天皇御直筆「南無釈迦牟尼仏」の書と、伝教大師自ら彫刻されたと言うお釈迦さまの御尊像がある。境内には榎の古木7、8本もあろうか、花まつりには見事な開花を見せ、その賑いぶりは昔を偲ぶに充分である。このごろこの寺を誰言うとなくポックリさまという。福岡、広島、秋田県など地方からもポックリ願望の信者のお百度を踏む姿が後を絶たない。尼様の第25世伊藤妙宣住職は「うちは、ポックリさまじゃないんですよ」と繰り返すが、老若男女の苦しまずに、そして周囲に迷惑をかけずに、あっさり死にたい、という願いは多くの人の押しとどめられない共通心理だが、そうした信仰の対象となる寺がポックリ寺として口伝えに広まったものであろう。 |
|
| 南山伏町 - 牛込警察署 - | |
江戸初期には、山伏修験者が多く住んでいたので牛込山伏町といった。家康が天正8年(1590)江戸入城後、寛永11年(1635)江戸城防備の表守護上野寛永寺に対し、裏守護とぢて、遠州西郷村より曹洞宗第7代護本山天竜寺を牛込に移した。場内への登城には乗輿独礼の待遇と、禄高十万石の格式を与えたと言う。境内広く、今の納戸町、払方町、南町、中町、北町、細工町、二十騎町(竹藪があったので竹町といった)の一帯実に三万八千坪とも言われる。二十騎町寄りの方は表参道があったので表大門とし、細工町寄りは裏参道のので裏大門といった。天和3年(1683)2月火災にあい、翌年4月、四谷の北追分、今の新宿4丁目56番地、一万六千坪に移転された。現御住職の平禅氏は39代目に当る。享保8年(1720)山伏町の火災によって修験者は他に移され、武家屋敷になったが、なお牛込山伏町といっていた。明治5年その山伏町を二分し南側を牛込南山伏町といった。二十騎町1番地から警察署裏にかけては、一抱えもある五葉の松がたくさんあって、太田蜀山人の詩にも度々詠まれ、そのうちの一本は戦災まであったと古老は言う。昭和35年4月1日神楽坂、早稲田両署が統合され牛込警察署として発足、南山伏町16番地に新築移転された。平成6年2月庁舎建替のため現在白銀町2−1番地、もと神祇社殿跡地に仮移転している。旧庁舎は遺跡発掘調査のため一年近く遅れると言う事もあるが、平成10年頃には再び新しい総合庁舎としておめみえされると言う。 |
|
| 早稲田鶴巻町 - 元赤城神社 - | ![]() |
古くは牛込村のうちで、江戸時代初期の早稲田村大字鶴巻である。「御府内備考」によると、小石川村(文京区内)の田んぼに放し飼いをしていた鶴が早稲田にも飛んできてすみつくので、鶴番人を置いたことから名づけたというが、これは後世の意味づけと思われる。この地は古代大胡氏の牧場があったところで、中島一郎「日本地名学研究」の中にのべているツルマキは、「水路のある原野の牧場」という意味の、牧場の名残りの地名であることから明治24年早稲田鶴巻町となづけた。早稲田鶴巻町の北方、文京区の神田川に駒塚橋がある。昔は丸太橋で、駒留橋といった。放牧された牛や馬は、ここまで来ても先に行けないので名づけたという。早稲田通り穴八幡坂下を流れていた蟹川の橋も駒留橋といったが今はない。同町568番地に赤城神社の旧地「田島森」の碑がある。そこは群馬県大胡から牛込に移住した大胡氏が赤城山麓の赤城神社を正安2年9月(1300)に勧請した所と伝えている。神社は沼神(水神)であるから、この水辺を選んだのであろう。戸山町から北流してくる蟹川(金川)と牛込柳町から弁天町を通って北流していた加二川がこの地で合流していた沼地に、島状の土地があったので田島森といわれたのであろう。元禄6年の地図(江戸正方鑑)に、蟹川が島を作って流れているのが出ている。この地からは、正安3年(1301)5月25日の銘のある板碑(高さ1.32メートル、幅32センチ)が出土して、神社に保存されていたが戦災で消失した。 |
|